甲州路その2
7月27日(月)中野トナカイ
中野での鑑定は、この日が最後です。中野での鑑定ご希望の方はぜひ。
10:00~13:00 水晶リーディング練習会
14:00~18:00 通常鑑定
※内容はコチラをご参照ください。
夜の時間帯は、甘夏さんと岩田さんが担当しますので、三上は昼のみの営業になります。
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※その1から続いています。
泊まったホテルは、甲府クラウンヒルズ
1泊シングルで5000円くらい。朝食付きの値段。寝具もこだわり、枕も選べます。
何よりすごいのは、アメニティが豊富。シャンプーがたくさんあり、選べます。ドライヤーも完備。
そして、電源がたくさんあります。これすごく大事です。
朝ごはんは、まあ普通の感じですが、ビュッフェですから、なかなかよいです。
コーヒーも無料でいつでも飲めますし、ポットも冷蔵庫もあります。
ここはおとめ月のわたしでもわりと快適と思うので、きっとお値打ちでしょうね。
素敵きらきらシティホテルではないですけど、1泊するのには良いと思います。
次の日はどうするか決めずに寝ることが、私なりの夏休み。
雲1つない快晴。
最初温泉でも行こうかなと思っていましたが、想像を超える暑さに、めげました。
朝起きてロビーでコーヒー飲んでいたら
目についた資料。山梨県立美術館で「ノルマンディー展」
印象派の故郷「ノルマンディー展」
”セーヌ河の河口であり、英仏海峡に面するフランス北部ノルマンディーは現在もフランスで最も人気のある保養地の一つです。19世紀初頭、この地に残っていた古い町並みや遺跡は、「ピクチャレスクな(絵になる)」光景とされ、英仏のロマン主義の画家たちに度々取り上げられるようになります。自然の中でモティーフと直接対峙し、自らの感興の赴くままに筆を走らせることを重要視して絵画制作に取り組む姿勢は、後の写実主義や印象派に受け継がれていきます。”
おお、これいい!と思い、その方向で動きました。
目が合ったのでそこに行こうなんて、なんかすごいロマンあります。
それだけでウキウキする。
絶対的に行くというより、そういう方向で、みたいな。
添乗員とかって管理管理管理なので(そのための体力)
先を見越してトラブルを防ぐとか本当夢がない仕事です。
旅行に携わる仕事よりほかでお金を稼いで旅行に行くほうが本当いいです。
で、県立美術館行こうと思って駅に出て、
南口の6番のバス停に並んでいたら、
バスの時刻表がよくわかりません。9時40分くらいに
6番のバス停にたくさん並んでいたのですぐ来るかなと思ったら
夜叉神峠行でした。登山客っぽい人がたくさんいるわけだ。
わたしは行かないので、バス停でひとりぼっちに。
で、あれ?と思って、次時刻表を見たらなんと10時40分。
9:50の時点で、次に親子が並んだのでもしかしたら
わたしの知らないバスが来るのかと思ったら、結局、全然来ず。
だまーって、待っています。
そのうち10時30分くらいになると、すごい列になってました。
そして、おばあさんが、私が並んでいる前に並び、
もう一人のおばあさんは私の背後に付き、横並びに並んでいたのに、
さらにもうひとりのおばあさんは、わたしと10時前から並び続けている親子の間に
割り込んで並んでいました。
なんかスゲーな、甲府!
あまりに来ないし暑いけど、なんとなく楽しくなってきて、
立っていても疲れない自分自身にちょっと驚きました。
(大きな荷物はコインロッカーに入れてきましたのが正解。)
運動のたまものかな、体力や筋力着いたかなと思って、
10時40分まであまり不満に思わず、待っていられました。
(不安にはなりました、間違っているかもと)
結局、バスが来たのは10時55分でした、笑。
なんか、こうやって、無為に過ごすということを
あまりしないので、待つということが楽しめました。
本当ならネット使いまくって、調べ上げることはできたかもしれません。
でも、なんか旅程をコントロールしたくなかったので、
成り行きに任せ切る修行としました、笑。
***
たぶん次来ることもないだろうと思って、
特別展のノルマンディー展と
常展と二つ見られるパスポートというのにしました。
ここ、来てみて分かったのですけど、
ミレーの作品がたくさんありますね。落穂拾いと、種をまく人、
両方ともあります。ミレーの作品70点ある。油断していました。
まずは特別展から。
この展示で知ったのは、ロマン主義というのは、懐古主義であり、
近代化に反抗することであったらしいです。
でも、そのわりには画家さんたち嬉々として文明の利器を使って、
近代化した列車や船の交通の便の良さを活用していますね、笑。
あちこちにスケッチの旅行に行っていたよう。
こうやって留まる力と発展したい力とが交差するのが世の常というもの。
占星術というか4大エレメントの
水(water)と地(earth)は内側にたまる、結晶する感じ
火(fire)と風(air)は外にほとばしり拡散する感じ
これが混ざりながら、循環し呼吸のように新陳代謝するのが世界
と私は思っているので、いつの世でもこういうのあるなあと思いました
ピクチャレスクという風景画(外国の風景を楽しみたい人のための絵)
画家本人が書きたいもの(ロマン主義)とが入り乱れている感じします。
このころは、教会や王様の権力もだいぶ下がってきてしまっているので
宮廷や教会のお抱え絵師として、生きていくのは難しく(枠や需要がないという意味で)
生活のためにせっせと、旅行の風景を描き、貴族や商人などの家に
飾るための絵をかいていたと思われます。
書きたい絵を描けるって本当にすごいことだと思いますけど。
選ばれしものというか。才能だけでは足りないものですよねえ。
(この辺は2013年に見にいったターナー展で知りました)
あと、いまさらながら産業革命の三大産物の活版印刷の威力を思い知りますね。
そのすごさというか、文化の変化ぶりを今更のように実感しました。
本というものの価値が下がる、敷居が低くなるということは
知識というのは、=権力ではなくなっていくということでもあると思うのです。
印刷により、情報がより多くの人にわたることになる。
特権階級じゃなくても手が届くということが、平等化の走りだなあと。
いろんな権力が失墜するわけですよねえ。知っていること=権力=階級の差でもあったわけで。
それが、それまではなんというか決定的な越えられない壁であったというか。
羅針盤、火薬、活版印刷で(天王星?)でチャンスがより広きにわたる。
すごい革命ですよねえ。印刷物は運ばれて、あちこちに広がる、文化に衝撃を与えるわけです。
絵画も、手書きでなくて、デッサンした人の図案を彫師が掘って印刷すれば、
何枚でも刷れるわけで。画家も大変だろうなあと思いました。
その後、写真も発明(1839年)され、
追随的に、「何をなぜ描くのか」みたいな問いも出てくるでしょうね。
現代において、印刷も写真も知っている私にとっては、
美術は何か、写真では写りきらない、崇高な何かを憧れて描く系が好き。
だから、グエルチーノでも思いましたが、宗教画が好きですね。
平たく言えばイマジネーションの世界。物質的には可視ではない世界。
印象派は、結構お金のために、ピクチャレスク(家に飾って愛でる風景)が多く、
観光地のはがきみたいに思えました。そういうのが歴史的資料としても大事であったりして、
価値がたくさんあるのでしょうけど、なんかあまり興味がわきませんでした。
そういう風景の絵の中でも、
クールベの海の力強さは意識を引き付けられるし、
モネは、空の光の美しさを夕日というタイミングや雲などを使うので好きです。
その差はまあ、ほんと、些細なことなんでしょうね。
あと「俺が提供するこれが美だ」系も苦手です(ピカソとか、マティス)
だから、デュフィはたくさんありましたがあまり興味がなかったです。
(ゲルニカは別です。あれはすごい気迫が感じられる絵なので
ぜひマドリードのソフィア王妃芸術センターで本物見ることをお勧めします。)
逆に、印刷物のはずのノートルダム寺院の絵の繊細に職人魂を感じました。
デッサンしている人と、彫師は別ということに今更気が付いて衝撃。
そういえば、北斎の版画も、原画を書いたのは北斎ですけど、
版を彫る人は別にいるということも思い出しました。
印刷物といえば、デューラーですけど、
デューラーはお父さんが金細工師で小さいころからそういうのを習っていて
自分で版を彫っていたようですね。絵も素描もうまくて、画家で版画家。
これは改めてすごいことだと思いました。
ドイツにあった世界で初めての活版印刷所で活躍したデューラー。
黙示録の版画を見に行きましたけど、本当にすごい才能ですよねえ。
今は、レーザーが何でもやってくれるので、リトグラフも簡単でしょうけど。
(いや、簡単じゃないか、アートに簡単なものなし。)
常展へ移動。
日本の画家の西洋をまねしたような感じの絵はあまり好きではないので
常展に好みの絵はなかったのですけど、山本正文さんという方のリトグラフは面白かったです。
太陽という題で4作。シャガールのような不思議感がありながら、日本画のようなわびさび的な
雰囲気もあるので、とても美しく感じました。
そして、ミレーの展示場(常展)
ミレーの作品は、逆に、昔は農民の絵で詰まんないと思っていましたが、
日々の小さな驚きや素朴な信仰心などがあらわされている気がして、
とても、好感が持てました。ミレーの描いたマリア像はマリアの象徴の
12個の星の冠が描かれていました。こういうの見ると、
キリスト教に組み込まれた占星術を信じていたなんかの信仰の名残かなと
イメージが膨らみますね。
美術品を見ていて思いますが人は感性が変わりますねー
小さい頃両親が好きだったのでよく見に行って見慣れていた印象派、
今は、すっかり興味がなくなりましたね。
今回の展示を見ていて思ったのが、
古代では階級が激しくてヒエラルキー的というか、
知識とは特権階級のもので、
精神的なマター(魂とか、神的なもの)は限られた人が担当してその役割をこなし
肉体的なマター(食べるとか働くとか生活を維持するとか)は庶民の担当であったわけですけど、
キリスト教が広がり始めるころ、庶民に信仰心(魂的な営み)が浸透するにつれて、
肉体的なマターと精神的なマターの分担バランスがどんどんあいまいになり、
どんな人でも比率は違えど、肉体的、精神的マターをそれぞれが己自身で担当することになってきている
というのが17世紀なんじゃないかなと常々思っています。
ゴッホはいまだに好きです。あの幻想的な感じが最初から好きでした。
ロマン主義っぽく、人ではない風景がが多いですしね。
印象派はジャポニズムと関係が深いですけど、
自然崇拝的なロマン主義に傾倒していた小泉八雲も日本に夢中になりましたし、
ロマン主義っぽいこの時代にジャポニズムっていうタイミングもなんか興味深いです。
ニーチェじゃないですけど、神は死んだっていう言葉が出ちゃう時代、
人々の信仰心は多神教(アミニズム)に思いをはせるのかもしれませんね。
仏教徒であったかもですけど、日本はずっと根底にアミニズムがあり、
その辺が冥王星を観測していたパーシバル・ローレルさんのオカルティックジャパンにもある。
(ローレルさんの弟子がトロボーさんですよね。
師匠に経緯を示してPLでプルートとも言われています、そいえば)
自然崇拝的な、畏敬の念。
宗教革命までは疑いようもなくそこにあり、それまでは当たり前だったものが
壊れて、産業革命で知識が広がり、疑念・疑問が広がり、精神的なマターのクライシスだったと思います。
それが、19世紀くらいから、起こりまくった世界戦争と関係あるような気もします。
そして、同じ19世紀にはわざわざその精神世界の重要性を文章化していかなくてはいけないくらい
人はそういう世界から離れてしまっているんだなあと思いますね。再定義というか。
精神的なマターの重要性の見直しを改めて外側から取り込んで
自分で咀嚼していかなくてはいかなくてはいけないのが今なのかなあと思います。
知識が手軽になった分、自分で考えていくということもセットになっているというか。
王様が方針を決めてくれるよな分担制な時代でもなくなったわけですしね。
キリスト教の自由意志の産物なんではないでしょうか。
だから、自然の力を借りないと作れない農作業は神の技を感じるのだろうし、
そういうのに一番近い人が、農民だろうとも思います。
食物を作る、農民に対して、神々しさをミレーは感じるのだろうし、
その大切さをいつくしむような絵がたくさんあるのだと思いました@印象派。
わたしたちの時代はそれが当たり前のように自分で引き受けているので、
その当り前さに気が付きにくいのですけどね。
ちょっと寄るつもりがとても勉強になる美術鑑賞でした。
アートは信仰とともに進化、発展していますから。
心に何を思うかが、絵(表現)で、見る人に何を思わせるかでもありますよね。
美術館の庭園。こんな感じで。岡本太郎さんの作品みたいのがあったので気になって。
バスの時間も気にして(さすがに、笑)
お昼を食べてから帰ることに
美術館のレストラン、なかなかおいしかったです。
サラダは食べ放題なのが、素敵。
プリンは信玄餅プリンと同じ味がする、きなこ入りでした。