光を取り込むこと
光の道の進むということについて、わりと抵抗感というか、
いや違うな、違和感がある私です。
光の道に、手放しでそんなにたやすく進めるのであれば、
闇というものの存在に何の意味があるのだと思うことがあって、
その光という部分を扱う(道を進む)ということは
闇をそれなりに消化する必要があるのではと、だいぶ前から思っています。
光というのはなぜ、浄化として認識されているか考えてことはありますか?
わたしはだいぶ考えていています。
正確に言うと、占いの部類に生まれて初めて触れた時からですね。
最初の占いはオーラソーマでした。
オーラソーマの中では、色が薄い透明に近いものほど強烈という概念があります。
そのことについて、そのきれいさにあこがれつつも、
手にしたテーマの重さみたいな半面性的論理に心惹かれて気になっています。
以下に書くことは現時点の私の知識を
総動員した思考過程のテンポラリーな答えです、今の時点の結論というか。
光が浄化ということについて、わたしが最初に認識し始めたのは
日光消毒という言葉からですね。布団です。
あと、アメリカにいておもったのですが、乾燥機と洗濯機の組み合わせでは
なんというか、きれいになり切らない気がします。
日光の紫外線というのは、よく温泉宿などで、くしなどの殺菌消毒するシステムなどにも使われています。
虹というのは可視化できる色に太陽光が分光された結果です。
光というのはいろんな調波でできていて、そのウェーブというのは一つではない
いろんなものが含まれているもの。
そして、
光で浄化とか、光は清浄という概念は文化的に昔からあると思います。
光というイメージを考えるとき、
まず最初に太陽の光まぶしすぎて直視できないということとで
色を当てはめるとすると、白があてはまるなあと思います。
直視できない=神々しいというようなもの。
日光は食物である作物や木の実を育てたりします。
実は甘くなります。
それが豊富にあれば、生物は肥えます。
豊穣のイメージですよね。
そして、干すという技術、昔からあります。
虫干しや洗濯物や布団を干す、
水分があると腐るカビるということから、
果物・野菜や魚、肉などを干して長期保存するために、水を抜く。
雑菌を排除する。
火も同様に光ですから、神聖なものとして扱われますね。
火を焚くことでいぶしたり(保存用の食べ物)
焼いてで殺菌、煮沸、暗闇をてらす、寒いことから身を守る。
火や光は浄化の作用があるというイメージを持ちやすいだろうなと思いますね。
対して黒は、光が届かないイメージ。
腐った時やカビの色は光の届かない暗いイメージ。
光はそれを照らし排除する、避けるというイメージがあると思います。
ここでいつも思い出すのが、上記のオーラソーマの色が薄いボトルほど強烈という話。
その当時は全然わからなかったのですが、この間いきなりそうかーと腑に落ちたのですね。
わたしが思いついたアイディアは、どちらかを押せば(バランスを崩せば)
光を取ればバランスをとるために、その分闇も取り込み、乗りこなすことで
光と闇の相殺が行われ、自分に定着するイメージがしました。(あくまで私のイメージ)
そうやって、バランスを取りながら、闇の部分の自分を見つめ、受け止め認識して、
光がやっと受け取れるイメージが浮かんだのです。なんかすごく腑に落ちました。
頭でわかるというのと、腑に落ちて真に理解にするというのは本当に違いますね。
光というのは取り入れれば取り入れるほど物質的な構造で影が濃くなる。
強すぎる光というのは自分自身すらも、殺菌されるかもしれないですし。
その光に耐えうる自分であるかというのは、段階によると思うのです。
カビ菌は殺すけど、人は生き残るという光の加減があるとしたら、
聖人は生き残れるけど、凡人は生き残れないという光の加減がある。
ある意味、強すぎる光を求めるという行為は賭けになると思いますね。
光光と、光ばかりを善として善やきれいなモノにだけ目を向けても、
人はやはり、光と影のコンバインで構成されていると思います。
肉体という死にゆく物体と、光で例えられる精神や魂。
精神的に求めても、体の欲求がそんな風に答えきらないと思うのですよね。
腹の底にたまった人には見せられない思いとか、後ろ暗い気持ちとかは、
光をよけている雰囲気ありますね。
光が届かない=腐る=悪くなるという連想があるんだと思います。
水でもクリアだと、光がとおりやすいし、清浄なイメージ在りますよね。
そういうイメージとこういう浄化という概念が一緒にあるのだと思います。
腐るというのは食べられなくなる、もしくは病原菌の温床になるということで、
人間から見た観点からは、良くないイメージ。
死ぬ=悪い
生きる=良い
というイメージが光とくっついているのかなあと。
人間の歴史というのは心理的に、死への恐怖というものが
張り付いていますからね、
肉体的な死だけでなく、社会的死、精神的死。
無ということが、恐ろしいのかもしれず、
有である感覚的、感情的なことが過剰になるのでしょうね。
無に対する恐怖が有を過剰に欲するような、
闇に対する恐怖が光を過剰に欲するような。
自然のサイクルだと、腐り土にかえることでまた新しい命が芽生えるサイクルですね。
全は一、一は全。
闇というと思い出すこの画家。
ポーランドの画家、ズジスワフ・ベクシンスキー(1929年 – 2005年、享年75歳)を見てると、
本当に闇について深く考えさせられます。
そこに目を背けられないぐらいあるのに、
語ることを避けられる、闇。
目を向けることができないくらいまぶしくて直視できないのに、
好んで語られる光。
【ズジスワフ・ベクシンスキーさん、1929年2月24日生まれ】
ほぼ満月生まれ。
太陽魚、月が乙女。
この混沌の雰囲気はまさしく魚だなあと思いました。
海王星が獅子なんですが、太陽と海王星がミューチュアルレセプションですね。
そしてほぼオポ。
うまく生き延びたんだけど、いろいろ見ちゃったんだなあと
感じさせる絵ですね。
”ポーランド南東部のサノク出身。少年時代にナチス・ドイツのポーランド侵攻を経験している。”
”彼の作品にはすべてタイトルがついておらず、作品の理論付けや詮索を非常に嫌った”
など、いろいろ話題性(※Wikipediaご参照ください)というか、さすがアーティストだなあという勢いがありますね。
なかなかこういう気骨のあるアーティストは現代いないですよね。
闇と光、神々しいまでの闇を描き、暴露した人かなと勝手に思っています。
闇をどれだけ扱えて受け入れ取り込めているかで、
魂の重厚感が違う気がしますね。気迫というか。