算命学の牽牛星
2015年04月22日|Impression, やまねこクロニクル|
わたしは本当に牛と縁があるなあと常々思っております。
算命学の中心星が『牽牛星』です。
そして、丑年生まれで、
名前が牛へんの牧、
占星術ではおうし火星です。
Mooooowって感じです。
牽牛星というのをイマイチ理解できていなかったので。
せめて自分の星くらいは知っておこうと思いまして。
算命学はムック本を買って読みました
、
武者先生にプライベートでお会いした時にご教示いただいたり、
ブログ拝見したりしてますが、
よくわからず、放置。
気持ち的に縁遠い東洋の占術ですが、
そんなわたしに先日偶然天海玉紀さんにお声掛けいただいたので
各星の見本として「牽牛の見本」になりました。
これは本当に勉強になりました。
(あ、算命学の自分のチャートを見たい人はコチラをご参照ください)
算命学のことで一番面白かったサイトはコチラ。
たまきさんが最初にざっくり成り立ちを説明してくださって、
聞いてていてほほう!と思うことがたくさんありました。、
たまきさんありがとうございます
算命学のチャートには
「陰占」と「陽占」があり、私が見ていた升目のやつは、
左側にある日付を表す漢字の羅列から転じてることがわかりました。
そして、あの漢字は上下に分かれていて、
上の漢字は精神的、
下は現実的地上的な意味
を持った二つの字の組み合わせだそうです。
そして、それぞれ漢字に五行「木火土金水」の意味の陰陽があるそうで。
陰占はその人の本質を表しているみたいな感じなようです。
例えば私の日干は「甲子」(きのえね)ですが、上が木で下が水。
水の上に木が生えているぷかぷか状態(不安定ですね)
木には、「生木」と「死木」とあり、わたしのは死木で、
大きく伸びあがるよりは、材料となって人のためになったほうがいい人。
(この時、名前を「三上机」にしようかなと思いました、笑)
そして、
講座ではどちらかというと、図の読み方で、
占いをしてもらっているチックで
(どちらかというと、私という人と図を照らし合わせて
牽牛という星を理解する講座という感じ?)
それを通して理解したことは、
・牽牛は金性で、攻撃本能であること
・金(牽牛、車騎)は火(鳳閣・調舒)に剋される。
・わたしは「火」がないので愛想がない、面白くない人らしい。
・正統派を狙いたいタイプであること(太陽の下を歩きたいタイプ)
・宿敵は調舒星であること(正官と傷官の関係で火は金を剋す)
・平和主義、安定を好む(保守的)
・矛盾がないので、迷いが少ない
・牽牛は口答え番長、玉堂は言い訳番長(わたし所感)
・向上心とは、自分の中に理想像があって、それをかなえたい欲求。
・自分では意識できないが、他人から見ると中心星まるだし。
・たいてい牽牛星の人は自分の星を嫌がる(私も印象悪い)
・言葉についての定義を細かく聞いてしまう癖(わたし所感)
・牽牛は「武士は食わねど高楊枝」的(これはそうであると思う)
という感じがわたしの理解。
講座で他の牽牛星持ちの人の話を聞いてたのが
一番勉強になったかなー。
あと私の「調舒星の人が周りに多いという謎」がなんとなくわかりました。
(いろんな人の話を聞いていての推測なので正しいかわかりませんが)
たまきさんによると、「剋されている星が才能」ということなのですが
わたしはあまり剋されている星がありません。
剋されまくっている人は自分で自虐的に自分を追い込むので
自然とスキルが上がるというシステムのようです、算命学。
まあ、やった分だけ積み重なるというのはそりゃそうですよね。
で、もしわたしがわたしの才能を育てたければ、
剋してくる相手を見つけて剋してもらうことにより、
向上できる自分になりたいのではないか?
と思いました(上に登る努力=剋される、笑)。
調舒星の話を聞いていると、自分の安定感を壊されている気がして、
的確だし、ムカムカしてきます。
しかししばらくムカムカしていてもそれを根に持つことはないです。
調舒星を持つ人々に敵意を持ったことはないですね。
たくさんいすぎているし、彼らの行動は私には関係ないしね。
イライラするというのはそこが図星だからというのもありますね。
でもそれって、不安定さを誘発して、また安定しようとする
力を招きますよね?それでこそ、自分の爪が砥げるというものです。
だからわざわざそういう人を選んで(?)付き合ったりするのかもしれません。
不可抗力な家族とかにも多いのでなんともですが。
そんなにいやな印象はないですけどねえ、調舒星。
わたし嫌い感覚があまりないので。興味ないか、好きかのどちかですね。
巻き込まれるのは確かに嫌かもです。一人でやって!と思います。
司禄星(土)→牽牛(金)→玉堂(水)とするする流れるから、
揺るがされるくらいがいいのかもです。
結局、揺るがされてもしばらくして離れると
自動修復機能がある感じですね。
あと、努力という言葉も牽牛的とか。
視野が狭いと、方法がわからんし、限度を超えてやりすぎて無駄になるので、
玉堂という勉強の星が働き、人の話を聞いて他の方法を参考にできる。
火が金を溶かしてしまったとしても、
その力を「土の司禄」で受け止めたり、
水の玉堂(もしくは二つあるから龍高)で逆に剋し返したりするとか、
牽牛が二つで車騎ぽくなり、まあじゃあ一人でやるわ的になったりと、
ミューチュアルレセプションじゃないですが、ちょっと変えるのかなとも。
それと、牽牛の権威欲を考えた時に、
その権威というのは自分の価値観の下に
形成された想像上の目標なのかもと思いました。
だから、視野が狭いと自分にフィットしない目標になるというか。
(「家庭」という井戸にお住まいだとね。)
「権力」という概念は、偏見という狭さにもよるかも。
視野が狭い牽牛は「権力」というティピカルさに盲目的になるのかなと。
攻撃本能というからには、改善したいという欲求に思います。
仮想敵国(片付けるべき目標?)を倒しつくし、
自分の立ち位置を形成するのが目標、そこで安定していたい願望かなと。
(安定したいけどまあ、蜃気楼のように感じてしまう性質なのか)
土という右腕が必要なのかもしれませんね。
権力に対する憧れというのはあまりないのですけど、
(アレルギーはありますね)
尊敬する人は本当に実力のある人である程度認められている人が好き
ってところが、牽牛ぽいらしいです。
玉堂なのですが、
実力がないけど権力を持って振りかざす人が好きではありません。
それは公の仕事とかをしていて思いました。
でも正しい世の中を(もしそんなものがあればですけど)
作っていきたければ、権力って必要だなあと思っていましたね。
そういう発想が牽牛星なのかもしれません。
ただ、正当派を狙うというのは確かにそうです。
仕事も、大体の人が知っている会社に入ることが多いです。
「え?何それその会社何やってんの?」ってところは選ばないかも。
ネームバリューにプライオリティを持っているのは確かに。
マイナーからメジャーにのし上がるのはワクワクするかも。
(靴は舐めませんが)
あと、自分の武勇伝を語る癖がある(人もいる)みたいで、
わたしはそういうところあるかもなあと思います。
てんびん座は比較検討なので、自分の例を出して
相手の思っている例だけじゃないよと思う時に話しますね。
でも、共感してほしい人はそんなこと無駄なのかもしれません、笑。
それは、占星術をしていて、思います。
あと、努力に対する概念的に対して
ツィッターで見かけた
「努力はう○こと同じ。毎日するけど人に見せるものじゃない」
(汚くてすいません、笑)
というのがぴったりくると思いました。
これって、牽牛的なのかも。
努力なんて自分のためだからやって当たり前だし、
わざわざそれを人に言うのダサイのかも。
(別に隠したりしませんがわざわざ言いませんという感じ?)
そして努力しすぎて倒れるスポーツ選手も牽牛らしく、
わたしも、そういうワーカホリックなところありますね、笑。
(そして、倒れた自分をがんばりすぎたと思わずに、
何やってんだわたし、頑張りが足りないと思う、精神?笑)
セルフ突っ込み機能がループするので…大変だと思うのです。
ぜひ、嫌わずに、暖かく見守ってほしいです。
出世したい(より高みに行きたい)気持ちを許してほしい、笑。
金性って、宝石や剣が象徴として充てられています。鉱物ですね。
鉱物って、マグマの中の養分からそれぞれ結晶するのですけど、
種類によって固まる温度の違うので、純粋な結晶ができる。
そういう集めて純化したものを取り出して磨いたものが宝石。
もしくは用途が違いますが、剣もそうですね。
だから、自分内に意識が向かう気しますね。
そして、自分の中の結晶をどう加工するかがポイントかも。
人というよりは、自分ですね。
自分がどうあるか、そこに尽きる気します。
(わたしはですけど、他人は他人の管轄ですし)
まーでも、私算命学はちんぷんかんぷんなので
正しいかはわかりませんね。フィーリングです。
自分の内面を面白く観察することができて大満足。
ご意見をたくさん聞かせていただきました皆様
ありがとうございました。
追記:
そういえば、矛盾がないと言われ方を良くされますが、
それは今、年を重ねてそうなっただけで、ずっとそうではないです。
わたしはずっと周りになじめず、疎外感を感じていました。
だから、きっと私はこのうちに生まれるべきじゃなかったと思ってたし、
どっかよそのうちにもらわれたいと思っていました。
(でもどっかのお金持ちの老夫婦ね、笑。
虹の国のルーシーメイというアニメの影響。
家族のところに帰りたいルーシーの気持ちがわからなかった。)
全中殺や二中殺ではないですけど、自分自身になじめない感覚は
ずっとあったし、自分の中のすべてがバラバラという感覚を
20歳ころまで持っていた気がします。戌亥天中殺ゆえですかね。
ある日思い立ってアメリカに留学したあたりから、
結構統合する過程をたどった気がします。
このあたりから確か大運天中殺だったと聞きました、そいえば。
そして、あまり一つにのめり込まず、ふらふらと変えるし、
結構目的とか目標とか願いとかなく、適当です。
目標や使命を持たないことでいいやと思っているところありますね。
人は日々変わり、社会も変わりますから、こだわっても仕方なし、
その場が楽しければいいや、最悪死ぬだけだしと思ってるところあります。