おべんとうの感想から想像する
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次回ウラナイトナカイは12月10日月曜日
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サーモス製のポットを使う魚月の人から思いついた、これは余談ともいえるのですが・・・
最近はお弁当の感想たびたびをもらっていて、そんな感想を持つのか!とびっくりして、なんという価値観の差だろうと感じております。
わたしは乙女月、彼女は魚月。
真逆です。
わたしが小さいころは、弁当=がっかりする食べ物。できればお金をもらって好きに買いたいタイプ。もしくは自分で作って好きなものをいれたいタイプ。あまり何かしてもらうことが好きではありませんでした。何かしてあげて喜ばれたいとかもない。
小さい人は、作ってもらったものを食べて元気をもらうタイプ。人が自分に注いだであろうエネルギー(想像)を吸って自分のエネルギーとする感じ。お弁当は手作りが鉄則です、仕方ないので妥協でたまにコンビニで買って持っていくとなりますね。
何もかもが真逆だから、よかれがあだになる良い例です。
わたしがいいとか正しいとか思うことを押し付けると彼女にはストレスになる、
わたしが我慢して合わせてあげると私のストレスになる。
塩梅が難しい関係性ですが逃げられない関係性がゆえの自分の固定概念を壊し合う関係性。時々自分の考え方が偏っていて自分の価値を押し付けるのは危険だなーと思います(太陽と水星はスクエア、木星はオポとダメ押し)何なんだろうと思いますが、逆に一人では改善できない痒い所に手が届くとも言えます。相性が悪いというのは、ある意味、持っていなところを伸ばし合います。
こういうのを長年観察していると、同じ4ハウス月でもここまで違うんだなーと思います(わたしも4ハウス月IC合)。母親を表す月がサインはオポとはいえ同じIC合というのは偶然なんでしょうか。偶然と考えるのが自然だと思いますが、しっかしこういう関連性って結構見かけます。お母さんの太陽サインが子どもが月サインとか。書くときりがないのであれですが、あ・・・と思うことが多いです。
鑑定の際は、アスペクトが(太陽と月と比べて)月に特徴がある時、お母さんとの関係性を伺うようにしています(太陽が多い場合はお父さんとの関係、太陽と月がタイトなアスペクトを取っていたらご両親の関係性とか)。そしてその時、読んでいるのはその人のネイタルですがたいていの方は「ああ、まさにそういう人です」と答える人が多くて、これも興味深く感じることの一端。
占星術的な方法で考えると、自分の母を見るとき月というイメージで色眼鏡をかけて見ているといえます。正確には「ネイタルの月という型を通して、自分の小さいころにリズムを(母親のことが多いので母としている)与えてくれた人から取り込む反射反応を積み重ねた上に、獲得する癖や習慣を月があらわしているということ。そしてその型がそのまま母親のイメージとなっているわけです。
これから推察するに、
わたしが思い込んでいる母というのは自分のネイタルの月(とそのアスペクト)で
実際の母は母が持っているネイタルチャート全体。
わたしの場合だと、
わたしは母をノンアス乙女月だと見ていて母をそう扱い、
しかしそれは実際にわたしの性格で母の物ではなく、
娘はわたしを魚月的な母としてい見て、
それをわたしのキャラクターとして私を扱う。
たとえばわたしの場合、実母は太陽牡牛(乙女と同じ土サイン)でその太陽に乙女木星がトラインです。その木星の位置に私も妹も月があります(これも顎が外れる確率)。そして私の月は金星と60度であまあまなように見えて、オーブ5度でゆるいのでほぼノンアスとも言えます。わたしは天秤に4天体ありますが、母は牡羊に4天体あります。どれもこれもオポジションですね。母のぐらぐらした月と打ち付けるように天体が配置されています。わたしは母からしてさぞ扱いづらい子どもだったでしょう、笑。
当時の感覚では、そんな甘い母親ではなかったし、甘やかされている自覚ないのです。なぜか「家にいるだけで(4ハウス)何もしていない人(ノンアス)」というイメージを20代後半まで持っていました。そして小さいころはやはりお決まりの被害者気分です。
でも今思い返してみると、どちらかというと牡羊の月(母のネイタル)のほうがしっくりきます。(しかし水星も牡羊なので木星乙女⇒水星牡羊、せかせかと作業をこなし他人をせかすという感じ)。占星術を身に着け、相手のネイタルを見ると幻想がはげるのかもしれません。占星術を知ってから、母のチャートを見ると、本当の母を自分とは別個の存在として外側から再認識することができる気がします。
割といろいろな資格を持った多才な人なのに(やり散らかしてるともいう)、娘の私はそれがなぜか実感認識できなかったのが不思議です。自分のチャートの世界観に閉じ込めた思い込みってやつでしょうね。
そして実際の母は、わたしを流産しそうになって仕事をやめざるを得なかった、つまり家にいるお母さんにならざるを得なかった人なのです。そういうところに気が付くと、ちょっとゾーっとします。今では家にいるのが割と好きな人と化しています。
そして、わたしが若い人からイメージを持たれている魚月。スープを用意する母親などとてもピッタリではないですか!あと、自宅で割と仕事している占い師の母親とかも象徴に符合します。わたしが占い師になったのは出産後ですから、わたしが自分で占い師になったのか、それとも彼女のネイタルの磁力が降り注いでわたしのチャートとフュージョンしているのか。
象徴的にチャートの中で太陽と月が両親を示すというのは教科書セオリーですがそれは裏を返せば子どものチャートと父親の状態もまた母親と同じく呼応しているとも言えます。子どもは小さいうちに太陽を自分で背負いにくい。月や太陽のトランジットからくるアスペクトは両親が肩代わりして(?)表現している、もしくは両親の変化をピックアップして自分の真理変化として吸収していることが多いというのもまた興味深い。宇宙の呼応なのか、偶発的なのか。妄想なのか。上記では母親を例にとっていますが、もちろん父親も同じように事象としてピックアップできることも多いです。
そうやって占星術を通して考えてると、親子関係って生温くないと感じます。ブーメラン的に刺さってきます。自分のことは棚に上げてないか、正当化して除外していないか、そういう風に思わさられますね。そりゃみな自分が悪くないと思いたい。わたしは悪いことしていないと思いたいですよね。そうやって、認める苦しさから逃げたりして可能性などをつぶしていってしまうのやもと考えたりしています。当事者がそういうフィルターでそういう情報だけをピックアップして意識を構成してるのかもしれません。
占いはそういううっすら符合しているうたかたのようなものを掬いとって検証するようなそんな世界。それを示しているような、違うような、偶然のような、ときにはまるで運命のようにも感じる・・・主観の世界・・・そこからモチベーションやら天命やらを見出して具現化していくのが大事。
家族であるというのは、そうやって投影を受けるということなんだろうなーと思います。父、母になるというのはそれを多少なりとも引き受ける関係性ということなのかもなと思います。
逆に、自分を生きるということはそういう投影していた両親の像を越えていくことなのかなと。両親の庇護化を抜け独立するには自分の中のセーフティを外し、自分に全部統合して引き受けるというのが大事です。そこを越えるのは勇気が必要な、ストレスまみれの成長過程で、一人の人間として独立し子どもという役割を脱するとき。そこを越えれると自分の中の自分らしさって見えるんじゃないかなと思います(まさしくこれぞ心理占星術)
親は親で人間です。自分が親になるとわかりますが「親」という役割だけで生きているわけではない。自己保存の欲求がありますし、自己実現という幻想もある。親という役割に100%徹して、子どもからの期待(役割を求められること)を背負いながら自分を生きる・・・名前がなくなり、お母さんという代名詞になり変わって行く。自分の親が自己実現!とかやっていると違和感感じるってことは、親を自分の固定概念の範疇で見たいという欲求ですよね。
それ、現代では守れていない親の役割を持っている人が多いし、自分の自己実現をあきらめられない。しし座の冥王星も老後はじけたりしていますね。子育て終わってからはじけているからまだ奥ゆかしいかも。
親という役割も持った人がそんな葛藤を持っていても、社会や子から「こどものため」という行動を求められる(自分の稼いだお金を自分で好きに使うと、悪い親となるし、自分の時間を自分のために使うとニグレクトと言われかねない・・・)動物としては、子どもが生まれた途端自分は子を守るに徹するのが当たり前なのかもしれませんね。
その辺はちょっとわからないですが、結局この親と子のお互いのインパクトはたまごとにわとり問題。親も子どももお互いを選べない。選べないけど、縁という見えない力が見えるようで研究していて面白いです。
こういうの見ちゃうと、本人的には「毒親!!」とか思っていてもそれは自分の月や太陽がとても状態が良くないっていうことを抱えきれない結果、親が悪い!っていう意識の消化不良が起こすという可能性はないのだろうかと思いました。逆もしかりですね、親の方が逆上して「お前のせいだ」(親が子に夢を託しコントロールする例?)とディスったりするのも同じように、影響が磁力のようにある可能性も考えることも。もちろん、本当にひどい例もあるので毎回でははないです。
そもそも、
人間という生物があとから勝ち取った理性をみたす「自己実現」構造、派生したの本当に最近です。それまで1万6千年くらいでしたっけ?、縄文狩猟型である動物的な欲求のみで生きてきたわけですから、原初の欲求が優位でもおかしくないかもです。この二つ、矛盾してぶつかっているのではと考えたくなります。
過去では、女性がその犠牲を全部引き受け男が自己実現を一家の代表としていた。今は男女の動物的な生物的な役割とあとから付加させ発展させてきた人の理性という余剰。
余剰の理性は、生物的な欲求が優先させた上に意志の強さだけで貫く個性。まず生き残る、子孫を残す、そして自己実現であったら、そんな時間も体力もあるわけねーなーと思いますね。24時間をどう生きるか。割り振りが個性を生むわけで、間違いはないわけです。どっちも完璧にっていうのは多分無理ゲーだし、自己実現とか霧散しますね。