映画『God is not dead.』
2015年07月5日|Impression, やまねこクロニクル|
先日、ロンドン特集がよく放送されていて(⇒こんなブログ書きました)
映画のハリー・ポッターを見直していたりしていました。
でもうちには、DVDの7巻がない。
近くのレンタル店にいって、借りてこようと思ったら
仕方ないので
その辺にあったのを物色。
(手ぶらで帰るのが悔しすぎて)
ちょっと疲れていたので見るべきだろう
「リアリティのダンス」はパス。
見るべきと思っていること自体、ちょっとダメな意志ですよね。
替わりに今一番興味のある、哲学の映画を。
結論から言って、あんまり評判の良くない映画でしたが、
なんというか、キリスト教の人にとってはなかなか面白いんじゃないかと。
いろんな説を展開して神が死んでないと説明しようとする話です。
哲学とキリスト教を戦わせるときの論点が、
そこは別に疑わしくないね、ってところがありますね。
ちょっとネタバレになりますが、
キリスト教の学生が主人公である日大学で履修した哲学のクラスの
教授がいきなり、神は死んだという結論に賛同することから
クラスを始めようとします。
(「神は死んだ」というのはニーチェの有名な言葉ですネ)
敬虔な信徒の主人公の青年は疑問を抱きます。
将来のキャリアにかかわることでもあり、
恋人に適当にやって単位だけ取るように言われます。
世の中そんなもんだからと。
そして、その人を中心に
いろんな人が信仰心について、心が揺れるという話。
まず気になったのが神=イエス・キリストに限定していること。
イエス・キリストが気に入らないからと言って全宗教を否定する
哲学者的姿勢ではない教授。
そして、ソクラテスが言ったとその教授が引用した
「(汝)己を知れ」言葉。
それ、タレスです。しかも7賢者がみんなで決めて
アポロン神殿に奉納した言葉です。そこ間違えてる人が教授やるって、ちょっと。
そして、哲学とはよく生きるために知恵を使う人で
自分の論理展開に合わなかったり、従わなかったからと言って、
貶めるような低レベルな人は哲学者とは言わないんじゃないの?とか、
感情で心理から目を背けているというのは、哲学者してお粗末では?とか
キリスト教徒の敵としてはちょっと敵としては
レベル低すぎてなんかずるくね?と思いました。
もっとしっかりとした哲学監修を付けてほしかったですねえ。
神=イエス(とその父)と決めつけて
他宗教(兄弟のような)のイスラム教を
ダメっぽく位置づけているのもあまり好きでないです。
(信仰の方法が違うだけで元は同じですからね、
ユダヤ教、キリスト教、イスラム教。)
神の存在を肯定している=キリスト教ではないし、
信じたなら改宗しちゃいなよでは、哲学的ではないと思うので…
そのほかを除けば、面白いストーリーだなあと。
特になんか口癖のように「God is good, always.」っていうのですが
その考え方が、ちょっと好きでした。
「神はいつだって素晴らしい」と訳されていましたね。
私には、「世界はいつも美しい」という言葉のように聞こえました。
(でも最後の結末がかなりいただけませんけど、さすが勧善懲悪アメリカ。)
哲学は無神論者と宗教者、
無宗教者(上位存在への畏敬の念を他人と考え方を共有しない人?)を
理性(言葉とか知恵とか?)でつなげる架け橋なんじゃないかと私は思うので、
この映画は哲学の映画ではなくて、
キリスト教の人がその信仰に疑いを持った時に見るといいかなと思います。
アメリカ人はキリスト教国家なのでこれは多分とても流行っただろうと思います!
わたしは日本人なのでちょっぴり違和感感じましたー。
キリスト教徒でもないですしね。
神という存在をいろんな人がいろんな形で信じているというのは事実だし、
神の存在を証明できない反面、不在も証明できない。
なんかそういうのって、
価値観であり、
考え方なので、いると思っている人はいると思ってればいいし、
いなくても別に支障有りませんという人は
その考え方を直そうとしなくてもいいと思う。
まったくもってポスト荒野の悪魔状態の教授が
「モラルは宗教を信じていないものにはないと思っているのかね?」
というシーンがありますが、
哲学というのは本来、幸せになるためにどうあったらいいか?
という概念から始まって思考を重ねる行為なので、
これは教授らしい問いだなとおもいました。
わたしは自然やそのほか大いなる動きに畏敬の念を示すので
無神論者じゃないですが、
信仰に方法論や理論を持たないので無宗教ですね。
あえて言うならアミニズム的でしょうか。
仏教では「草木国土悉皆成仏」という考え方が好きです。
たしか、柳宗悦「南無阿弥陀仏」の中で
草も木も土地も国も、みんな仏の一部、世界はすべて自分の一部であり、
自分は世界の一部であるという考え方ですね。
だから、むやみに他人や他生物、他物質を傷つけたり粗末に扱うことは
自分を粗末に扱うようで、愚かしいというような解釈をしていて共感しました。
シュタイナーでも自分のことにように他存在を扱うことを勧めていますね。
よく考えてみたらわたしたちは意識の上で
世界と自分の間に境があると思っていますが、
物質レベルで見ると切れ目なんてないのですからね。
「無い」というのはないわけです。遮断とか。
だから、認めようと認めたくなかろうと、共有しているわけで。
複雑に絡み合い、ワンセットで存在しているよう。
呼吸や食物摂取やもろもろで出たり入ったりするし、
私たちは空気というものに常に満たされ囲まれている。
足は地面から離れない(重力で)いつも何かに接触しながら生きているし、
地球という環境を共有しているものたちですから、
草も木も土地も国(人の集団もしくは生き物の集団)もみんな世界で
世界とくっついているわけですよねえ。
くっつきあって構成されている「モノ」が世界。
宇宙だってくっついて続いているわけです。
私は地球人であり、宇宙人でもあるわけですよね。
そういう意味で宇宙人総理も、仲間ですよ(笑)
ハイデガーは人を世界内存在と表現しますが、
人を認識したり人に認識されたりして存在しているのが人間。
映画の中で面白いなあと思ったのは、
「善悪の区別や良心の呵責は神という存在があって見られている概念があるから」
という説を主張していたところ。
これは、なかなか面白いなあと思いますね。
グレートジャーニーという本の中で、類人猿という存在はたくさんいたのに
ホモサピエンスという種類が残ったのは、
ものをシェアしたり交換したりする「協力する知恵」だといわれています。
ホモサピエンスより力が強く頭の良い類人猿や人類系の生き物はいたのに、
力の弱いけど集団力で生き抜いた人類が生き残り、
やがてその存在が信仰心というものを見出すわけですから。
単純に「神は最初からいなかった」といえないと思います。
すごくいい論点があってもうのは本当に骨の折れる論証となるでしょうね。
ま、私の感覚からすると、
好きとか嫌いとかの概念は大事だと思います。
これ食べられそう、食べられなそう、
こっち危険そう、こっちは安全そうとか、
そういう概念の形成に大事だからですね。
憎しみが大きいときって、きっと自分の中の安全概念が
脅かされているときなんだって思いますし。
気持ちがぐちゃぐちゃするから、知恵って成長するのだろうし。
※wikipedia「神は死んだ」から以下を引用
『悦ばしき知識』(Die fröhliche Wissenschaft,1882)の108章、125章、343章で言及されている。その内、最も著名なのは125章の記述であるが、今、ドイツ語版Wikipediaより当該部分を抜粋すると、
Gott ist todt! Gott bleibt todt!
Und wir haben ihn getödtet!
Wie trösten wir uns, die Mörder aller Mörder?
とあり、
英語版Wikipediaでは
God is dead. God remains dead.
And we have killed him.Yet his shadow still looms.
How shall we comfort ourselves, the murderers of all murderers?
(中略)アメリカの神学者たちは、現代社会において神は人間にリアルな存在ではないという意味で、神は死んでしまったという意味で用いる。(以下略)