自分探しと身体性
★10月5日 11:00~21:00 ウラナイトナカイ 占いの鑑定しています。
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10月になりましたね!
ずっと対応していた1つ懸案事項が片付き、ほっとしています。
ストレスで物を捨てまくっていました。
部屋が片付くと、なんとなく満足するのです乙女月。
一番簡単なのが捨てること!
あと、久々にハイデガーの授業に行ってきました。
(実は全然全体的には理解できないのですけど、気付きは山盛りある。)
面白すぎてメモを書きまくっておりました。
基本的には知識や認識についての章ですね。
(ハイデガーメモ)
人は非真理と真理の間を揺れ動き、
頽落して、真理から目を背け、偽造しつつ隠ぺいする
人は常に隠ぺいのうちにある。
つまり、
知(真理)の探究とは自分の意識に張り付いた鱗(隠ぺい)を剥がす作業。
うろこは気を抜くとすぐ生え戻る。見えていたものが見えなくなっていく。
見える=知識=わかるという感じで、認識できている部分だけ
人は認識することができる。
古代ギリシャ語でアレテイアという
「いつどんなときにも変わることのない、正しい物事の筋道。真実の道理。」
つまり、真実を見つけ明るみに出すこと、認識という感じ。
英語で発見という意味のdiscover
discoverというdis(なくす)+cover(覆い)で発見。
真実に覆いかぶさっているものを取ることで、意識できるようになる(真実に近づく)。
それを発見というのですけど、これと同じ感じなんですよねアレテイアという言葉。
もともとあるものを観察や考察によって、真実が見えるような知を得る。
それがアレテイア。
※こういうところはドイツ人というだけあって、
シュタイナーに似ていますね。本質は観察洞察考察にある。
真実を決めつけないでああかなこうかなと揺れ動きながら
ちょっとずつ真実に近づいていくという姿勢は同じ。
簡単に定義づけして、そこに安住しないというのが真実のそばにいるコツらしいです。
この時代、ドイツの哲学者や思想家はロマン主義、
=ローマ的な思想ということで、ギリシャから派生した思想
特にアリストテレス(プラトンの学校で学んだ人、プラトンはソクラテスの弟子)が
すごく見直されているのでシュタイナーも少なからず影響があるということだと思います。
哲学とはもともと人生を幸せにするために考えることという感じなのですが、
自分がやるべきことにエネルギーを注ぐというのが一応幸せと定義されています。
知識を重ねていくことでそれは見えてくるもの。発見されるもの。
でも、ハイデガーはその心理に近づく行為というのは、日常的にできるもではないので、
人は常に日々に流され頽落(怠けること)の内にあると言っているわけです。
幸せになりたいのに、幸せになる道を歩く困難さから目を背けるというか。
感覚的に幸せになるということと、
安全を確保するというのは別なので、
この頽落というのは、日常の安定、営みを大事にしていると
簡単に起こり得る普通のことです。
意識して真実に近づこうとしなければ、
真実には近づけない、そういう感じでしょうかね。
ツィッターで見つけたこのツィートがそれをよく表しているなあと。
風刺画といえば,昔この風刺画が流行ったことがある. 「本を読むことで視野が広がり、そして違う世界が見えてきます 」 という感じの題だった. 多くの人が悲しみながらも共感しているのが印象的だった.(続) pic.twitter.com/cfkggyK4bY
— へたれ (@Hetare_Takumu) 2015, 9月 23
(承前) しかしそんな中,続けて貼られた画像がこれだ. 僕はこの画像が好きだ.本当にたまらなく好きだ.これが勉強だ. pic.twitter.com/iMpUVFSuDF — へたれ (@Hetare_Takumu) 2015, 9月 23
わたしは真理って何だろうなあと思っていたところだったので、
これを見て妙に納得しました。
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それともう一つ思ったのが身体性と自分探しについて。
昔ジェーンスーさんが、
「自分探しというのは探している人と探している対象が同じなのでややこしい」
ということをおっしゃっていて印象的だったのですけど、
それと、身体性について、ちょっとつながったのでメモ。
結論から申し上げると、
自分探しをするのであれば自分の体と対話するのはいいことだ、ということ。
自分というか、個体制という区別は、
肉体という箱に入っていることだと私は思っていて、
意識というのはどっかしら集合無意識につながっていると思うのです。
集合無意識を海王星として魚サインの領域とすると、
そこから飛び出す力が牡羊サイン。
そして、天岩戸に逃げ込むアマテラスのように
肉体の中に逃げ込んで、他と距離を作る(物理的に別々という状態を作る)
「牡牛サイン領域」ということだと思うのですよね。
ということは自分という個人という独立した存在を意識しようとするのであれば
それは肉体の中に発生する、五感の中にあるのではないかと思うのです。
あえて孤独になろうとするというのは、自分の見えているものという視覚のみを真とし、
感覚を感じている自分が自分という感じになりますね。
これはうちのJCに説明していたことなのですが、
わたしの口の中にあるアイスクリームの味を同じ感性をもって
共感させる、わからせることはできないということ。
(あ、エスパーがわたしの体に入ってその感覚を体験できれば別ですけどね、
うちのJCはそれできないので)
そしたら、
「あ、それってトイレ行きたいときに自分が手を離せないから
替わりに人に行ってきてーっていうようなものだよね?」
と答えていました。
まさに、そう、そういう感じ。それが個別性。
わたしとあなたは別の存在なんですっていうやつですね。
誰も正確には共感できないのです、特殊能力がない限りというわけで。
私がいつも凝った肩で眼鏡をかけながらパソコンを使うという負担が乗った身体感覚。
これは、個別性満点なんだと思うのです。
そういう小さい集まりがわたしだけの私しかわからない感覚、個人だと思うのですよね。
デカルトの「われ思うゆえにわれあり」というこれはそういう感じなんじゃないかと思います。
わたしたちが感じているということが、世界を構成しているすべてではないですけど
わたしたちが認識できる世界は私たち自身の体が感じられているすべてですから、
「私たちは思った以上に世界を知らない=無知の知」というところにたどり着くのだろうなと
ちょっと考えました。
そして、とりあえず手あたり次第知ろうとする双子域に踏み出すということなのかと。
戻って、牡牛の五感というのはいかに個人的要素が強いかということが
浮き彫りになったなあと思いました。
だから、自分の体を知るというのは、無意識から離れて「わたし」という存在を
色濃く感じられる行為なんだろうと思います。
痛覚で自分が生きていて存在することを確認する人もいるし、
食べたり飲んだりで自分の感覚を発見する人もいる。
ストレスを感じて自分の存在を確かめるように暴飲暴食とかもあるのじゃないかと。
良い音楽を聞くということで自分の感性を感じ、自分を感じたりするかもだし。
なんというか、自分というのをより深く知るのなら、五感を大事にしたらいいなと思った次第です。
ヨガの話になりますが、
体がきちんと動かせていないことに気が付くというのは大事だと思っていて、
それは上記の「個人というものをしっかり持つ」というのはまずここからだなと、
自分探しというのはそういうことなんじゃないかなと、はっとした次第です。
体の体調が悪い、不快ということが感情を左右するし、
体のゆがみにより、体が上手に使えないことのストレス。
こういうのも、五感の内に入ると思うのです。
そこを体の感覚からなのか、
自分の意識(自分の知識のアーカイブから湧きあがる)の中の違和感なのかは、
体を常に意識していないと、混ざってぐちゃぐちゃになり精度が落ちるのではなかろうか
と思ったわけです。
意識というか、真実というものに、重点をおいて、
そこに戻り真理を見ることだけを人生の目的とすると、
五感を超えて(ないがしろにし)考察や洞察に集中していくDIVEのような
ことをするほうがいいのかもしれません。
でも、そうすると、そもそも私たちはなぜ物質的な牢獄である肉体に入ってまで
地球に来たのに、そこから出ようとするのかという疑問も出ます。
こういうのは好みだと思うので、何がやるべきことか?とは申しませんが、
肉体と精神性の和睦というのが、てんびん座ですし、好ましいかなと思います。
あんまり偏って、精神世界に入り込みすぎてそこだけっていうのは
どうしても違う気がするのです。世俗的なのですけど。
間違って空から落ちてしまった天女のような人は、
上に戻ることを中心に据えてもいいと思います。
わたしはたぶん、地球に生まれたくて生まれている気がするので、
地球にいるという感覚を大事にしたいと感じますね。
好奇心を大事にしつつ勉強し、
五感も大事に体も気に掛ける。
もちろん、必要な日常的なことも。
これがこのところのわたしのわたしのトリニティです。
話は続くのですけど、
たぶん、世間一般の【自分探し】というのは、
【自分の居場所探し】なんじゃないかなと。
みな天職に憧れ、この身を何かに投じたい。信念を燃やし尽くしたい。
そういう意味で自分探しと使っている人が多いのではと思うのです。
それを見つけるというのは、
自分だけで完結するものではないと思うので、
シンクロニシティと、
自分の中に降り積もった肩コリも含めた個別性(牡牛の快・不快)と、
多数の他人で構成される環境という、錬金術なので
探すというよりは、起こるというほうが正しいかなと思った次第です。
快・不快でジャッジするには、「何か判断材料を発生させる」ことが大事だし、
それには行動を起こさないと何も起きないのではと思います。
ただいま42歳で火星期のわたし、きっと「わたし的火星」総仕上げに入っていると思います。
快適に生きるために集めているものをやめ、捨て始めました。
たぶん、木星期のことを視野に入れつつあるのだと思います。
45歳になると、本格的に木星の影響下に移行する。
その前の牡牛火星の仕上げが、今の私の運動や、ヨガや、経験を貯める傾向
なんだろうなあと思います。木星は水瓶なので親和性がなく、
火星から木星への移行は難航するだろうな、笑。
45歳のころ丁度、12ハウスにプログレスの月が入るので
いったんどっかに引っ込み、p月が1ハウスに抜けるころ、切り替えていくのだろうな
ちょっとぼんやり思っています。