太陽と月の統合(2017年5月の考察)
以下は私の考想であり、事実とか定義とかではありません。わたしが占星術にいろいろ感じたことのイメージを言語化してい見ました。フレームワークがありそこに対応する象徴について。
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オックスフォードに占星術を習いに1週間行った時に、錬金術と占星術の授業を2日間集中的に学んだのですがこれがなかなか面白くて、わたしの中で古典ブームを引き起こしたといっても過言ではないくらいなのですが、それが日々深々と降りつもっていくようにしみわたっています。特に太陽と月の統合について。「民草の生活が変わったとしても、宇宙の公式が変わって行くわけではないので、その変数である私たちが認識を改めていかなくてはならなというのが現代」という発想から書いています。わたしたち全員が民草であり、己の王なのだというのが現代かなという切り口ですね。
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太陽というと、アポローン。アポローンはデルフォイの神殿の全知の神。アポローンの神殿に何か奉納しようとしたとき、ギリシャの七賢者は「汝己自身を知れ」という言葉を奉納したという話は割と有名だと思いますが、わたしはこの「汝己自身を知れ」が太陽のキーだと思うのです。哲学の中心概念であり、神秘学でも基礎概念だと認識しています。つまり太陽というのは己自身を知るものなんじゃないのかなあと。自分のやるべきことを知っているもの、何をすべきかを自分で決断するもの。
そしてそういう人を見て眩しく思い、憧れる。目標とか参考にすることで、投影する。その姿は決して間違っていないと思います。金星の内にそのうち他人と己は違うんだというところに達していくのではと思いますね。目が開かれる、知識とは人々の積み重ねからまずは模倣するものだから。自分の頭が考え始め、疑問を持つことで離れていく。わからないというのも個性なのでは。
自由とは勝手にやることではないと思います。それは月の自分のペースを守ること。自由とは選択肢がある時にそれを意思を持って選ぶことだと思います。
占星術という概念は天動説なので、観測者かつ学者がいる位置からの観測の視点を中心にデータを積み重ねてそのパターンを蓄積していったものです。なのでもともと視点がパーソナル。最初は国とか、土地(農耕)とか、王とかのことを予測していたのですが結局これも、わたしという個人の集合体の視点なんでしょうね。観測者が国のことを自分のことのように感じていた時代でもあると思います。民族が一塊という単位、結婚すらも意志ではなく、民族と視点で行われた時代。
その後、文明が少しずつ発展して、自我が芽生え(キリスト教が私の自由意志などを広め始め)、「知力」を握っていた権威が少しずつその高さを低くし知性が庶民にも広まり、望遠鏡で天王星が発明されたあたりでトップとの差がだいぶ縮まり下剋上概念がちらほらと出てきたあたりで、神の存在が揺らいだと思います。わたしという濃度が急速に人々の中で高まっていた時代ではないでしょうか。結婚も自分の意志と感情を反映したものが出てきます。そういう選択肢がある、選べるという時代。よく考えてみると動物ですら遺伝子のために子を成すための個体を選ぶのに、民族の都合で意志に関係なく選ぶということを経て、自我が芽生えるのかも。本能的によい組み合わせではなく、楽しいとか面白いとかを加味した感情で選ぶことは不自然な行為だよなと。
薔薇の名前でも、「知られる=壊れる」という動機で書物に毒が塗ってありましたけど、それのもっとも古いたとえ話がアダムとイブなんではないでしょうか。知恵の実を食べることによって、裸でいられなくなり楽園にいられなくなる。知識を得ることでそれが邪魔になり、見えなくなるもの感じられなくなるもの、それが神の世界と表現されているのではないかと思っています。尊敬の念にも似ていると思います。畏敬の念を感じるほど上だから尊敬する。でも自分とそう変わらないと思うとそれはもう尊敬ではなくなるみたいな。親への感情にも似ていますね。守破離の世界。
現代の禁断の果実というのは、文明な気がしていますね。土星以遠は肉眼で見えなかったものを望遠鏡を改良して見てしまったというのが私が妄想する科学による楽園追放物語です。信じる者は救われるという可能性すら放棄してしまった気がしてなりません。
で、戻って太陽と月についてなんですけど。古来、月は庶民の暮らしを示していました。デフォルトでとびぬけようとしなければ月の我々多数的な考え方です。そして崇める太陽がいる、昔なら王ですね。マンデーンなどで国民の雰囲気を見るときは月を見ます。大義を見ず、感情で批判批評、指示、サイドを決めたりする群衆なイメージです。
土星:自然の摂理、季節、積み重ね、経年
木星:神、神の理想
火星:推進力、王の兵力、将軍(戦略ないと負ける人)
太陽:王、方針を決める人、目標
金星:祭り的贅沢、日常からの息抜き、ご褒美
水星:夜と昼を行き来できるマーキュリー
月:庶民、日常生活、6ハウスまでの夜の世界にいる人たち
※土星と木星の関係性妄想 はひとつ前のブログに書きました。
火星って個人的にいまいち腑に落ち切ってないのでわからないのですが、王より強いけど武力のエキスパートで、イメージ呂布です。強いんだけど、使われてこその力。おつむはいまいちで、誰かの将軍で指示されると強いのだけど、指示されないとどう発揮していいかわからず呂布みたいに政治ができず、丸め込まれてしまいます。王の兵力でないといけない人。
太陽は対して、わたしの中ではオデュッセウスのような人。神とつながりし人で武力はそこそこだけど、知恵で乗り切るイメージ。神にその存在を愛されています。そして目的や責任がある人、王です。逆にイーリアスだと、神から愛されし火星(英雄)の末に王になる的な、そして金星の姫をゲットした人でもあるのかなと。英雄が王をやめるときそれが死というのがイーリアス的な悲劇ですよね。日本でいうと「兵どもが夢のあと」的でもあります。
昭和以前の価値観で、専業主婦に月、その人の太陽に夫という当てはめ方をする考え方がありますが、この配置の場合、国という単位の世界感が家庭の中でとどまりますね。妻から見た王(太陽)が夫、夫は家庭の中でしか王ではありません。外に行けば世界が広いので月となります。そして王は上司や雇い主というわけです。そして彼の世界は会社となるわけですね。視点や投影先によって、チャートの中でどうやって認識しているかで象徴の投影先が変わってくるのが占星術だと思います。
太陽が9ハウスでJoyの位置に来る時に、人にたくさんその理想を広める光として高いところにいるのでピカピカと嬉しそうに遠くまで照らすというイメージをしますね、わたしは。一つの思想の上でみんながまとまる大きな塊になります。大きな塊が太陽の光(思想性)を支持すれば、その光の効力は強いということになります(一つだった光が、個々人の中でそれぞれランプのように光るので一個人の光が反射のように倍増していくイメージを持ちます。コピペ増殖みたいなイメージ)
金星が5ハウスジョイだと、一人でこっそり贅沢をするほうがより贅沢できるので夜の世界の5ハウスで個人的に楽しむ位置にあったほうが強く光るだろうなと思います。創造性というのは野生の思考にあるようなそこにあるもので工夫して必要ではない装飾をする自己満足的な作り上げる力のように理解しています。そこに、汎用性や人が作ることを持ち込むと途端に自分の美意識をある程度抑えたり我慢しなくてはいけない状況になると想像しています。
木星のJoyはダイモーンを表し、良い思想性を持ったマインドの目的を同じくするクラスタでみんなで共闘、共存、協力していくと、社会は豊かに幸せになるというイメージもあります。一個人の能力ではカバーできないところを他の能力と協働することで一個人が解決しなかった新しい領域に行ける、三人寄れば文殊の知恵的イメージでもありますね。
つまり、
長い前書きで何が言いたかったかというと、神とか王とかいう概念が世の中で形骸化され、光として成り立たず、人々を照らさない場合、太陽を誰がどうするのか?という疑問を、個人で考え出さねばならぬという難問にぶち当たっているのが現代なのではないでしょうか。
月はデフォルト仕様として組み込まれているので、自動で発動する最初の惑星なので勝手に稼働します。水星(月にも太陽にも使える知性、能力、行動)は積み重ねがそのまま実力となる領域で割と磨きやすい個人の努力次第の領域に思えます。金星は、飽きると同時に発動するので割と遅かれ早かれだし、周りを見て模倣したく成る代物。日常的に要らない贅沢やハレの日もしくは息抜きと築きあげていきそうです。
このような月の夜の世界を満たし獲得して卒業した後、(年齢ごとに成長していくことによって)太陽に取り組んでいく流れとなりますが太陽は自動発動せず、自由意志による目的設定が必要なのかもなあと思います。設定はあるが自動的に使われるわけではなく、自分が意識的に装備しなくてはいけない何かであるということのように思います。
太陽という対象が見つけにくい現代で、太陽は個人的チョイス、自分次第であるもので、昔よりも自分の中でどうにかしなくてはいけないものとして重くのしかかるのではないでしょうか。とにかく、太陽と月はセットで夜と昼の地球を個人でどうにかしようというチョイスも選べる現代です。逆にいうと、意識的に選ばなければ、他人に適当に投影することも可能です。
両方使うことできるし、可能ですがめんどくさいし、負担は重い。昔王様という人は太陽だけやっていたと思います。象徴ですね。で、タレスじゃないですけど月は使用人が全部やっていたのではないでしょうかね。だから、月と太陽の統合というのは現代人だけの新しい課題なんだろうと推測します。
そして、火星が王の兵力であるなら、金星って、どちらかというと月よりなんじゃないかとちょっと思います。太陽と月どっちのサポートにもなりえますが、使い方によりそう。現代だと仕事を生きる(食ってく)ためにしてる月的働き方だと、金星がMe-Day(ご褒美)的に祭りぽく使ってる人多いきがしますね。自分の太陽に使わないから、テレビや雑誌とかにその過ごし方を求めてしまったりしがちになってしまう。民衆の儀式にのっとった祭りの雰囲気が出ますね。〇〇になったらこういうい嗜みとか、つい流行に乗ってしまう心境も、月の日常性の風通し良くする金星の役割で一瞬「王(太陽)」に近づいた気分になるため、太陽もどきで終わってると邪推したくなりますね。
仕事を支えるセンスが輝きをもって他人の気持ちを左右するほど(感動させられるほど)、照らすなら好きなことで食ってくのが成り立ち、太陽に使う金星として成り立つ場合なのかも。投影する先の太陽を見つけられず太陽も自力で発動できず(当たり前だけど発動させるのすごい難しい)、生きる力を見いだせないのかもなあとうつっぽくなる理由かもと妄想発動。生きる力を見いだせない時、月だけで生きてしまっている時なんじゃないでしょうかね。逆に個人的な人生に光を見いだせるのなら他人を照らさなくても太陽が発動していると思います。他人のため多くの光を出すとなると、月の部分を誰かに委託するルートを確保しないとかなり難しいので、太陽の輝きに依存している人はお金で酬いないと太陽を維持することができないってことなんじゃないかなと思うのです。スポーツ選手なんかが国のお金で生活しているというのはそういうことかなと思いますね。
そうすると・・・
1.太陽(自由意志)+金星(美意識)/月(生活)がうまくバランスをとって「生きていて楽しい」状態。
2.太陽(自由意志)と憧れとしての金星(投影)でリミックス)/月(生活)「生きるにあまり疑問がない」
3.憧れ(投影でほぼ全面アウトソーシング)/金星(ご褒美)+月(食うための仕事+生活)
※他人に生きがいや方向性を依存しているのでちょっと危うい。
4.太陽(生きがいと他人に希望を与える)/月(他人にアウトソーシング)
※月を一人にアウトソーシングしてしまうと、その人の自由意志エネルギーを奪ってしまう。例えば、母や妻。そのほか、プロフェッショナルに委託しお金で解決するのもあるがその場合多少の月力が必要。
目安的にリストアップしてみました。これが全部じゃないですけど、太陽と月のバランスをうまく他人への投影を取り込むことで体内分を補い、その替わりに金星を疑似的に込めるというやり方もあるんじゃないかと思ってみました。どのように自分の人生を割り振るかというのはソフトアスペクト側に流れるというのが定石ではないかなと思います。月がトラインで、太陽がスクエアだと生きるために働くを多めにしやすいとか。太陽と月の割合を自力でどうにかするときに助けになるのが水星ですよね。水星を意識的に鍛えて運命を切り開く=努力、独力ということかなとも。
太陽を外側に求める状態が「憧れ」なのかもしれません。
あくが・れる【▽憧れる】
《本来は、あるべき所から離れる意》
1 いる所を離れてふらふらさまよう。
「自分の魂が―・れ出して、…水の面を高く低く、揺られて行く」〈谷崎・細雪〉
2 物事に心が奪われる。うわの空になる。
「山林に身を苦しめ雲水に魂を―・れさせて」〈露伴・二日物語〉
3 胸を焦がす。思い焦がれる。
「其写真に頬摩 (ほおずり) して―・れ」〈紅葉・金色夜叉〉
4 気持ちが離れる。疎遠になる。
「おもておこしに思ひし君は、ただ―・れに―・る」〈落窪・二〉
(出典:デジタル大辞泉 )
「スポーツや演技などで、その技の美しさ真剣さから勇気(エネルギー)をもらう」とかの憧れは自分の太陽の発動が未発達で、投影して他からその太陽エネルギーをもらっている状態なのかもしれないとちと思いました。それが悪いわけではないと思います。バランスが合っていればそれでいいのだと思います。それが自由意志というものだと思いますし。
宗教思想というのは枯れない太陽エネルギーであり、それを伝える人は太陽の象徴そのものであり。規模の大小はあれど、神の代理人の王の現代版として役割を持っているのかもしれないですね。昔は、王(太陽)と月(民衆)と協働関係だった気がします。国を動かし守る王と、納税する民。役割がきっちりしました。ただの役割出会って人としてはあまり変わらないというのがばれてしまった後は成り立ちにくいシステムですが、秩序をもたらすには便利ですよね。
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2015年のカーディナルクライマックスで、強調して個人や個性について、課題が浮き彫りになりつつある気もしています。山羊冥王星伝統的なもろもろの破壊、魚海王星の秩序を緩める力、新しい文明への憧れによる推進、他人に対する価値観の見直し天秤の土星を巻き込んでのグランドクロスでしたが、それの影響ってすごいんじゃないかと今更ながらに思います。個人個人の権利と義務の陰影が激しくなる配置。ハラスメントとかの用語が頻繁に使われ出したのもこの辺なんじゃないでしょうか。そういう意味でちょっとしたことにすがってしまう藁をもすがる「蜘蛛の糸」のような太陽への渇望感、一方で個人義務過剰化みたいな他人の力を借りにくい(太陽の投影を批判する)風潮になっているというのが気になります。そして、投影先に耐えうる強い太陽を持っている人がなかなかいないのも現代の難しさな気がします。