自分の生活と社会的活動にはそれぞれ個別に意識を向けよう
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このところ思うこと。
自分のために頑張れるのは自分だけということと、自分の何かを担ってくれる人というのはこちらの差し出してくる何かを期待している相互的でないと歪みが生まれそうだなということが、まあ前からわかっていたことですが、最近強く感じてることの、ひとつです。
30歳越えるまでは、自分を自分として形作るのに懸命で、対社会的立場とか、自己管理とかのすみわけができていなくて、若さからくる体力で何となく乗り切っていたよなあと今更ながら築いています。20代の娘がいるからでしょうか。
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先日、スーパーでブラムリーのリンゴを見かけたので買ったら、飯綱町産でした。
(飯綱町では仕事をしたので懐かしい。)
ブラムリーとはイギリスのアップルパイに使われる酸っぱい加工用のリンゴで昔フォートナム&メイソンのアップルパイに使われてるのを食べてあまりの美味しさに衝撃を受け(甘酸っぱさが好み)名前を憶えていて、次に見たのが飯綱町でした。
懐かしい!
娘が偶然帰ってきたのでお菓子を作ろうとなり、アップルパイを作るにはめんどくさかったのでアップルクランブルにしました。白い砂糖がなくて、黒糖ときび砂糖を混ぜたので色が悪くなりましたが、おいしい。
アイスクリームとか生クリームがあるともっとおいしいです。かなり酸っぱいので。
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適当に作ったアップルクランブルを食べていたら娘が
「お菓子作りは優雅な趣味だよねえ」
といいました。
私にとってはなんとなく手作り=プロじゃないというイメージで、娘の発言にびっくりしました。
わたしの思い込みからすると、買うとお金かかるし、仕方なく手作りするイメージだったので、手作りで申し訳ないなとか、思っていたので。
娘からすると誰かが作ってくれる=手間をかけてくれる=愛情という感じみたいです。
私の小さいころの価値観では、手作りするとか時間がもったいない何でも買えばいい、貧乏人だけが手作りするという感じだったので。
でも、確かに自分の好みにカスタマイズできる技術って、素晴らしいかも。砂糖減らしたりね。
世界に蔓延していた工場が大量生産する「消費至上主義」は山羊座冥王星と共に変革を起こしているはずで、自分で作ることが可能という技術こそ、本物の財産なのかもなと気づきました。山羊座の娘に教えられた気分です。
買うということに依存しているとお金が必要だし、お金で買わなくてもすむ(他人に技術提供依頼しなくていい)自分でいるというのは大事なのかもしれません。
お金に縛られない分、自由が増えるのでね。お金を稼ぐには時間を使うことが多いし、最低限のお金というものは少ないほうが働く時間が少なくていいということでもあって。
そして、ひとつのスーパーパワーに依存しない、依存先を一つにしないって大事よねえとか。何か一つ借りるときに、ひとつ返せる自分であるのとかも、これからは視野に入れていきたい。ちょっとそう思った出来事でした。
最近のラノベでも英雄は名誉のために命かけるという考え方を否定するラノベも増えていますし。人助けに魅力感じていないヒーローやヒロインってもうヒーローヒロインではないのでは、語源から逸脱しているしw
話戻って、リンゴ。
ブラムリーというリンゴは日本ではなじみがない、加工して食べる種類。それがゆえに、スーパーで安売りしていました。
わたしはたまたまその美味しさを知っていたのでお安く手に入れられました。情報の時代「知っている」ということも、どう対応するか知っているというのも才能のうちかもなあとちょっと思いました。あんまり自分の中でそういうところ、評価してませんでしたけど。
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何が言いたいかというと、
『生活をきちんとする能力』みたいなものは、1970年代以前生まれのあたりでは軽視した文化が優勢で、その環境で育っていたせいか専業主婦になりたくないと強く思っていたので、気を抜くと生活に役立つ力や知識に対して低く見積もる癖がつい発動するということ。そして、生活を充実させてると「怠け者」みたいな気がしてくる罠も発動するのです、心理的に。
でもわたしたちは、自分の体の面倒を見てメンテするのは必然で本来自分のことは自分に責任がある。大義名分と思い込んでいる社会的活動(プライドややりたいこと)をするにも、生きて体を健やかに保たなくては、なにもできないわけで。
モチベーションって健全な魂の時に上がると思う詩、それは健全な体に宿るものだから。
人生の派手な部分に着目、つまり人に認められることを目を向けたくなりますが、そればっかりでは生きていけないよなあと思います。
ある意味「俺の成功によるスポットライトを一緒に浴びようぜ」というささやきを真に受けて縁の下の力持ちになるのはかなり博打な行為だとも言えます。相手が失敗したときを考えると、自分で頑張ったほうが納得いきそう・・・というのが私の性格だし。
結局幸せって、そういう日々の己自身を大切にするようなことの中に見出しやすいような気がしています。社会で活躍して得られることの中に心の安寧って見出しにくい気がするし。
他人に評価されるような部分に幸せを見出そうとすると、他人のご機嫌伺に人生を浪費することになるなと最近は思います。
水がめの時代はまず足るを知り、それ以上に行くときはそれぞれの才能を持ち寄り連合を組むという感じなので、水がめサインが跋扈してる間はすごい人が救ってくれる世の中は夢物語って気もします。
(政治家とか最近騒がせていますがすごいカリスマのひとはいないですよねえ。昔感じていたすごい圧力のアレは縁の下の力持ちが下にたくさんいた組体操だったのだと思います)